2つの本で描かれていた家族というコミュニティの捉え方の違い

最近読んだ本(ライトノベル?)「偽物語」と「輪るピングドラム」では、主人公が家族というコミュニティの捉え方が異なっているのが興味深かった。

偽物語化物語シリーズ)では主人公の阿良々木暦と妹2人、そして両親の5人で暮らしている。本の中では、両親との接点はほとんど無く、兄妹の話が中心になる。話の中で、主人公は祈祷師から妹の一人が人間ではなく、生まれた時から不死身の怪異であると告げられる。しかし、主人公は「妹の存在は怪異ではなく家族だ」と主張する。

一方、輪るピングドラムの主人公である高倉晶馬は兄の冠葉、妹の陽毬と3人で生活している。両親はいない。建前上では3人兄弟ということにはなっている。けれども、実際は3人とも別々の家族から死別したり孤児院のような所から引き取られて兄弟という形をとっているが、物語の終盤には3人はばらばらになる。
3人兄弟という家族が分断されるようになった原因が彼らの両親が10年以上前に大規模なテロを起こした犯人であるという設定だ。犯罪者の子供である晶馬は、直接犯罪に手を染めたわけではないにもかかわらず、そのぬぐえ切れない事実に罪の意識を感じている。

偽物語における主人公と妹の関係とピングドラムにおける3兄弟はどちらも血のつながりはないという点において共通している。

偽物語の主人公にとっては「例え血がつながっていなくても長年一緒に生活している事実に変わりは無く、妹は家族の一員である。」主人公には「家族は大切にすべきコミュニティだ」という前提があった。だから、たとえ妹が偽者でも家族であることには変わりはない。主人公の視線は家の中(内)を向いている。

他方、ピングドラムの主人公にとっての家族では両親が起した犯罪という重い十字架を背負っており、世間の目からは注目されないでひっそりと生活することを望んだ。3人で分担して生活してきてなんとかうまくやっていたけれど、結局こじれてしまった。もともと血がつながっていなかったのだから仕方がない。家族ごっこはもう終わりだ。こちらの主人公には家族を世間(外)にとってどのような存在なのかという事に意識が向けられている。


輪るピングドラムの監督を務めた幾原邦彦氏は物語をつくるにあたり、インタビューでこのような事を言っていた。

アメリカのドキュメントで、刑務所に入った家族に毎年会いに行って、みんなで集合写真を撮るという話をみたことがあった。日本だと問題を起した小さなコミュニティを許そうとしないムードがあるでしょう。ムラ社会的な装置が、そんな家族にフタをしようとする。でもアメリカは逆で「周りがどういおうが、自分達のコミュニティが大事である」と思うみたいなんだよね。面白いなぁと思ってね。日本もそのうち、そうなるんじゃないかな。「自分にとって最も大切なコミュニティは何かを誰もが自覚する日はそう遠くないと思う。

一般化することは少し暴力的かもしれないが、上の引用に当てはめるのであれば、偽物語の主人公はアメリカ的で、少なくとも彼の家族内では頼れる兄としてみられるだろう。ピングドラムの主人公はどちらかというと日本的で彼は頼りない存在に見えるかもしれない。そしてそんな彼の事を私達は遠めで見て「情けないなぁ」という印象をもつこともあるけれど、はたして彼と同様の境遇にあったときに、偽物語の主人公と同じ態度を取れるだろうか。

今回取り上げた2つの話は「家族」という型をとっていた。そしてこれまでは「家族」こそが最も強いコミュニティだと考えられていて、震災を経てからもよく取り上げられるけれども、大切なコミュニティが家族とはまた別の「なにか」がそろそろ出はじめてもいいのではないかと考えている。