これも自分と認めざるを得ない展

21_21 design sightで開催中の佐藤雅彦ディレクションの「"これも自分と認めざるを得ない"展」に行ってきました。

実は、以前一度訪れてはいたのですが、体験できなかった作品がいくつかあったので、今回二度目の訪問になりました。
一度目に訪れたときは、ちょうど佐藤雅彦さんのトークショーが開催され、私も運よく参加することが出来ました。トークショーの内容も踏まえて書いていきます。

展示内容にも触れているので、ご了承ください。

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この展覧会を開くにあたって、三宅一生さんから「展覧会を見て、きれいだった、面白かった、というようなスッキリと家に帰ってもらうのではなく、何かもやもやしたものを持ち帰ってもらえるものにしてほしい」という依頼がありました。

この依頼を受けて、佐藤さんは一つのアイデアを出しました。それが、この展覧会で始めに展示されている「指紋の池」です。これは、自分の指紋が生き物のように動き出したら愛おしさを感じるのではないか。というテーマを基にしたアイデアでした。

このアイデアから「属性」というテーマが生まれ、作家へのオリエンテーションにも「指紋の池」を踏まえてつくってほしいという依頼をしました。

展示を作り上げていく中で佐藤さんが一つキーワードとして出した言葉が

「人は意外と自分のことに無頓着である。」

ということです。それは、すでに「当たり前」のものとしてみているからなのでしょうか。それとも、ただ意識していないからなのでしょうか。

今回の展示を体験すると、自分が生まれながらに持っている属性について考えるきっかけになると思います。

以下、展示を体験したときの自分の感想をいくつかピックアップして書きます。

  • 「指紋の池」では、登録した自分の指紋がディスプレイに映って泳ぎだす。始めは分かるものの、時間が経つとどこに行ったかわからない。ディスプレイには既に大量の指紋が魚の群れのように動いており、どの指紋が自分のものなのか分からない。だけど、もう一度自分の指紋を登録させると、勢い良く始めに指紋がディスプレイに映った場所まで戻ってくる。指紋はいつの間にか出来た枠の中にとどまり、静かに消えていく。いつの間にか自分の指紋に感情移入している自分がいることに気づく。そして、その瞬間だけ、指紋を子供としてみている自分を強く意識する(元々、その指紋は自分のものなのに)。親から見た子供の視線てこういうことなのだろうか、と考えをめぐらす。
  • 「属性のゲート」では自分の顔がカメラの認証システムによって判断され、該当するゲートが開く。自分の意思とは無関係にゲートが開いて、そこを進んでいく。自分の属性については、自分がよく分かっているつもり。自分が持っている属性と同じ側のゲートが開いたときよりも、自分が予想していない側のゲートが開いたときに生まれる違和感。あくまで、認証システムからはこのように見られているのだ。と自分を納得させるが、もやもやはなかなか無くならない。
  • 「属性の積算」では、始めに登録した自分の身長と体重の属性(値は表示されません)を使った展示ですが、自分と同じような属性を持った人がいると、「あるいは」という表示が出てくる。そこに自分の名前が出てこないと「不安」になる。始めに身長を計測して(値は表示されません)たくさんの「あるいは」が出てくるけれど、体重計に乗ってみると、「あるいは」の数が減ってくる。私の場合は、2つの測定で、自分と判断されて「安心」したことに気づく。
  • 「金魚が先か、自分が先か」この展示では自分の視線の動きと感情の変化を思い出して書いてみる。

  1.あ、水槽の中に金魚が泳いでいる。
  2.振り返ると、水槽はあるけれど、金魚がいない。
  3.目の前には水槽が映っているから。。鏡?でも金魚がいない。
  4.鏡だとすれば、自分も映っているはず。だけど映っていない(あせる)
  5.3.と4.の思考を行ったりきたりして、ようやく、これは鏡ではない。ということに気づく。
  自分があたかも金魚になったような錯覚に陥ることも無きにしも非ず。

  • 「新しい過去」では、自分が好きなものを登録すると、それを好きになった経緯を教えてくれる。これはあくまで自動生成プログラムなので、自分が好きになったきっかけとは違うのだけれど、「そうかな」と思う瞬間があれば、自分の記憶が書き換えられることになる。警察の調書を髣髴とさせるので少し怖いなと思う所もあった。例えば取り調べで調書を作成しているときに、自分がよく覚えていないあやふやな記憶に「そうだったかもしれない」と思わせることで、実際には行っていないこともしてしまう。新しい過去を作り上げてしまう。

いくつかの体験を通じて改めて意識することだけれども、自分が自分であることを認識するのは「他者」の存在があってこそ。佐藤さん曰く、鏡の存在を認識出来るのは人間とチンパンジーしかいないのだという。そのほかの動物は、「自分」しかいない。だから、周りと比較することはない。
最近の風潮として、人をどちらかに区別したがる傾向にあると思う。例えば「勝ち組と負け組」や「リア充と非リア充」など・・・とてもくだらないことだと思う。ただ、その一方、定義されてしまえば、「安心」するのだろうなとも思える。たぶんそれは自分が属性の積算で感じた「安心」と近いのかもしれない。

佐藤さんがトークショーの最後に、「人は属性に無頓着にもかかわらず、社会が人の属性に圧力をかけている。しかし、自己実現や存在意義という言葉にとらわれずに自由に、生き生きとすごしてほしい」と話していた。

確かに、最近まで常識として通用していることはあった。けれど、もうそろそろ通用しなくなるんじゃないかと思っている。例えば、結婚したら夫が昼間仕事をして金を稼いで、妻が家庭を守るという構造も、夫の給料だけでは生活できなくなって共働きをするという構造に変わっていくだろうし、新卒至上主義の採用も、数年のうちには変わらざるを得ないだろう。

今がちょうど時代の変わり目辺りだとすれば、佐藤さんが言っていた属性にとらわれない人生もそんなに遠くない時期に来るのではないかと、考えている。私たちは「タグ化する社会」に生きているのだから。

「タグ化する社会」についてはまた後日書く予定です。

”これも自分と認めざるをえない” 展 の見方佐藤雅彦さん自身による展覧会の見方)

いったいどれが自分? 「“これも自分と認めざるをえない”展」 Exite ismによる展覧会の紹介