2010年の振り返り

新年早々出だしからいきなりこのようなことを書くと、反感を買うと思うのだがあえて書くと、初日の出を見に行くという行為が良くわからない。太陽は昨日とはほとんど変わらず、日は昇る。その現象に単なる「初日の出」という意味づけをしているに過ぎない。普段は当たり前のようにあるものを、その瞬間だけ「格式高い」という見方をするのが私には相容れないものがある。
初日の出を見る、という行為が、新年を迎えたことを体と頭に覚えさせるためのイベントなのだろう。

私は新年の騒がしい時間よりも、年が終わっていく時に見られる「家に帰っていく」時の景色が好きだ。都心の電車にのる乗客はいつもより少なく、がらんとして少し寒々しい。けれど、家路に向かう人達は少し急ぎながらも静かな幸福に満ちている。

ここ3年ほど、家で映画を見ながら年を越している。年を越す瞬間は映画の中に入っていて、映画を見終わった後時計を見て、年が明けたことを確認する。その少し前まではそれまではTVをつけていないけれど、Twitterの紅白TLを眺めていた。(ただ単に紅白を見ている人が多かったからなのだけれど)

>>テレビは見ていないけれど、TLを見ているだけで楽しい。これがネオ茶の間か<<
と思わずTwitterでつぶやく。ネオ茶の間とは佐藤尚之さんの「明日の広告」という本に出てくる言葉。茶の間で家族一緒に同じテレビ番組を見るということは少なくなったけれど、ニコニコ動画のコメントだったり、Twitterでの実況だったり同じ空間にはいないけれど、同じコンテンツを楽しんでいる状態。これがネオ茶の間。(明日の広告が出たときにはニコニコ動画を例として挙げていた)

去年を少しだけ振り返ってみると、Twitterの存在が大きかった。昨年度は特に。純粋にTwitterに参加した人が増えたことや、一昨年まで進んでフォローしてこなかった分野の人についてもフォローを始めたことが大きかったのだろう。TLでやり取りしてきた人と、実際に会うことも複数回あった。(特に@HAL_Jさんの英語のオフ会に参加したことがきっかけでやり取りをする人に幅が出来たことが大きかった。感謝しています。)会社の中で仕事をしていると、一日のうちのほとんどが会社の中の人のやり取りに終始してしまうけれども、Twitterではそれがない。年齢も、性別も。バックグラウンドもなしに、つぶやきという文字の集合体ががTLという河になって流れていく。それが面白い。

フォローとフォロワー関係にあることを「つながり」と呼ぶのはいささか行き過ぎている気がしないでもない。もう少し曖昧にみえる。かといって糸が切れているわけではない。
Twitterは箱庭という言葉が以前RTで流れてきた。フォローする人を選択するのは自分なので、TLに流れて欲しくない人をフォローしないと箱庭になるのはやむをえないのかもしれない。箱庭にならないために(公式・非公式)RTがあるのかもしれない。とはいうものの、Twitterをしている人はまだまだごく一部。名前は知っているけれど、毎日定期的に使っている人はそれほど多くない。

Twitter賛歌のように書いてきたけれど最後にこの記事を紹介する。Twitterには限らず、ソーシャルメディアを使っている人へ。頭の片隅に入れておくだけでも悪くはない。

社会貢献ブームとソーシャルメディアが創りだす、善良な下流市民